アスペルン・エスリンクの戦い

出典の明記date2012年2月ソートキーあすへるんえすりんく世界史

Battlebox

battlenameアスペルン・エスリンクの戦い

campaign
colourschemebackgroundcccccc
imageFernandCormon005jpg300px

captionフェルナン・コルモンエスリンクの戦い

conflict第五次対仏大同盟1809年オーストリア戦役(ナポレオン戦争)

date1809年5月21日-5月22日

placeオーストリア東部ウィーン近郊のドナウ川ドナウ河畔

resultオーストリア軍の勝利

combatant1AUT1804
combatant2FRA1804

commander1カール・フォン・エスターライヒテシェンカール大公

commander2ナポレオン・ボナパルトbrジャン・ランヌKIA

strength1100000BR 野砲260門
strength273000BR 野砲144門
casualties1死傷 23340
casualties2死傷 21000

画像LageplanAspernjpgthumbright240pxアスペルン・エスリンクの戦い

画像Charles Meynier 001jpg240pxthumbrightロバウ島へ帰還したナポレオン 5月23日

アスペルン・エスリンクの戦い(アスペルン・エスリンクのたたかい 英Battle of Aspern-Essling 仏Bataille dAspern-Essling 1809年5月21日 - 5月22日)は、ナポレオン戦争における戦闘の1つ。ウィーン近郊のドナウ川ドナウ河畔で、カール・フォン・エスターライヒテシェンカール大公率いるオーストリア帝国オーストリア軍が、皇帝ナポレオン・ボナパルト率いるフランス第一帝政フランス軍に勝利した。ナポレオンが直接指揮する軍が敗北した数少ない戦闘例の1つでもある。

ナポレオンにとっては、兵員損失もさることながら、最も信頼する部下ジャン・ランヌが戦死するという辛い敗北であった。一方、ナポレオンに勝利したカール大公はオーストリアの国家的英雄として称えられた。

背景

1809年4月9日、オーストリア帝国はイギリス帝国イギリスと第五次対仏大同盟を結び、同日、カール大公率いる20万のオーストリア軍主力がバイエルン王国バイエルンへの侵攻開始した。ナポレオンは直ちにライン同盟駐留のフランス軍部隊を集結させて反撃に転じ、4月22日のエックミュールの戦いでオーストリア軍主力を撃破した。カール大公はドナウ川の北岸へ退却した。

ナポレオンはドナウ川南岸を東進し、5月13日にオーストリアの首都ウィーンに無血入城した。カール大公もオーストリア軍をドナウ川の対岸に集結させ、決戦の構えとなった。ドナウ川に架かる橋梁はオーストリア軍が全て破壊しており、フランス軍は渡河点として、ドナウ川の流れが細い支流に分かれている中州のロバウ島の周辺地域を選んだ。5月19日から20日にかけてドナウ川南岸からロバウ島までの仮橋が建設され、20日夕刻までに大部隊がロバウ島へ渡った。20日夕刻から、フランス軍は対岸に通じる最後の架橋工事に入った。

経過
1日目

5月21日払暁までに、フランス軍はアンドレ・マッセナマッセナの第4軍団を先頭に24000、野砲60門がドナウ川北岸へ渡った。左翼がアスペルン、右翼がエスリンクの村落を確保し、2つの村落を結ぶ線に橋頭堡を築いたが、背後にはドナウ川が迫り背水の陣を強いられた。カール大公は兵力95000、野砲200門を手元に有し、ある程度の敵の渡河を意図的に許し半渡のところを衝く作戦であった。ナポレオンももちろんその危険性を承知した上で勝負に出ていた。

オーストリア軍は、ヒラーの第6軍団、ベルガルデの第1軍団、ホーエンツォレルンの第2軍団がアスペルンを攻撃し、ローゼンベルクの第4軍団がエスリンクへ向かった。戦闘はアスペルンで開始され、ヒラーとマッセナの両部隊は村落の取り合いを幾度も繰り返した。ナポレオンは2つの村落の中間に陣取り、フランス軍中央部を前進させ、そこから胸甲騎兵をオーストリア軍の砲兵部隊突撃させた。だがオーストリア軍もリヒテンシュタイン指揮下の騎兵を投入し、フランス胸甲騎兵後退した。夜が訪れる頃、村落はマッセナの部隊が確保していた。

エスリンクでも激戦が続いていた。フランス軍ではジャン・ランヌランヌが防戦に努め、夕刻まで村落を確保し続けた。フランス軍には夜までに増援が加わり、兵力31500、野砲90門に増加したが、依然オーストリア軍よりも劣勢に立たされていた。両軍は露営に入り、アスペルンでは互いのピストルの射程内で眠りについた。

2日目

夜の間にフランス軍では第2軍団と大陸軍フランス皇帝近衛隊近衛軍団が仮橋を渡り、歩兵50000、騎兵12000、野砲144門にまで増強した。一方オーストリア軍も兵力100000、野砲260門に達した。

22日早朝、戦闘は再開された。エスリンクへのローゼンベルク軍団の攻撃は、サン・ティレール師団の増援を受けたランヌにより撃退された。中央部でもフランス軍が押していた。だがアスペルンでは、ヒラー軍団とベルガルデ軍団の度重なる攻撃によって、マッセナ軍団の戦列は崩れかけていた。フランス軍の後方連絡線も危険な状態にあった。ドナウ川にかけた仮橋は、オーストリア軍が上流から流した艀によって何度も破壊されていたのである。

カール大公は戦いに決着をつけるべく予備兵力の投入を決断した。彼自身が軍旗を手に持ち、部隊の先頭に立ってアスペルンへ向かった。カール大公の直卒部隊の攻撃によってアスペルンは陥落。ほどなくエスリンクもローゼンベルク軍団がついに奪取した。午後2時、ナポレオンは全軍に撤退を命じた。

ランヌは全軍の最後尾に立ち、味方の撤退を援護し続けた。オーストリア軍の追撃は激しく、フランス軍の犠牲は大きかった。ランヌも砲弾の直撃を受け重傷を負った。フランス軍は戦闘に参加した73000のうち死傷者21000の損害を受けた。オーストリア軍の死傷者は23340に及んだ。

影響

ジャン・ランヌランヌは右足切断の緊急手術を受け、一時は小康状態になったものの31日に息を引き取った。ランヌは戦死した最初のフランス帝国元帥となった。

フランス軍は手痛い敗北を喫したが、決定的な打撃を受けたわけではなかった。ナポレオンは諦めていなかった。イタリア方面からのウジェーヌ・ド・ボアルネウジェーヌ軍団の来着を待って、7月4日に再度ドナウ川渡河作戦を実施する。この作戦は成功し、7月5日から6日にかけてのヴァグラムの戦いに勝利、シェーンブルンの和約でオーストリアを屈服させた。

オーストリアにとっては、アスペルン・エスリンクの勝利は第五次対仏大同盟1809年の対フランス戦役の勝利には結びつかなかったが、それまで無敵であった軍事の天才ナポレオンに痛撃を与えたことは人々を力づけた。カール大公はプリンツ・オイゲンオイゲン公とともにオーストリアの2大英雄として称えられ、現在もウィーンのホーフブルク宮殿前の英雄広場(Heldenplatz)に銅像が立っている。

参考

David G Chandler Campaigns of Napoleon The Mind and Method of Historys Greatest Soldier 1973 0025236601

ナポレオン戦争
DEFAULTSORTあすへるんえすりんくのたたかい
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Categoryオーストリアの戦闘
Category1809年のフランス
Category1809年のオーストリア